昭和51年04月28日 朝の御理解
御理解 第9節
「天地金乃神は宗旨嫌いをせぬ。信心は心を狭う持ってはならぬ。心を広う持っておれ。世界を広う考えておれ。世界はわが心にあるぞ」
今日は親教会の春のご大祭です。春のご大祭は十月の教祖金光大神祭りに対する、天地金乃神様のお祭りが春のご大祭です。その天地金乃神様がお喜び下さるようなご大祭。どう言う様なご大祭を頂いたら、いわゆる天地金乃神様がお喜び下さるか。今日親教会のご大祭のことをお願いさせてもらったら、ここは16日にもう済みましたけれども、まぁ教会は今からあっちこっちで大祭が御座います。
その大祭の事をお願いさせて頂いておりましたら、もう昔頂いた御理解の中に「拝まにゃとうさん、改まらなきゃ通さん。磨かなければ通さん」と言う様な、三つの信心にはまぁ段階がある。この頃は段々拝まにゃ通さんというか、まぁ生懸命大祭の時だけ拝んで、大祭の時だけ、お願いをするご大祭が多くなったという意味の事を頂きます。さぁ何時何時は大祭で御座いますから、どうぞ沢山の信者をお引き寄せ下さい。
沢山のお供えをさせて下さい。と例えばまぁ、そういうお願いばっかりの教会が段々多くなったと言う事でしょう。そりゃ成程過程ですからそれもよかろう。けれどもそれで終止する教会が多くなったと言う事でしょう。それから一歩も前進しない。それでまぁ教団では、頂く信心から、生みなす信心へと言う様な風にいわれております。頂くという信心は、どうぞどうぞとお願いをして、おかげを頂くというのです。神様にはもうお願いをしておかげを頂くもんだという風に思うておる向きがあるようです。
頂くという成程頂く事も、お願いをして頂く事も大事、そこには色んな修行をしたり、まぁ第一言われるのが表行であります。水をかぶったり断食をしたりして、もうその事のおかげを頂かんならん為に願う。いわゆる祈念力が強くなる。一生懸命拝むと言う事。ですから、矢張りおかげを頂きます。けれども是は何処までも、いわゆる頂く信心です。だから、頂く信心では神様は、本当に喜んで下さらない。天地金乃神様は、宗旨嫌いをせん。心を狭うもってはならん。
まぁそういう心の大きな神様ですから、願えばおかげを下さる。けれども神様の心としては、「世界はわが心にある」と言う様な、豊かな大きな心を頂かせて頂く、そういう信心を願っておられる。勿論氏子も立ち行き神も立ち行く。そういう願いを持っておられる神様ですから、ただ願いだけの信心ではいけません。それがどんなに熱烈に願っても、熱烈な修行を致しましてもおかげを頂いても、それはもうそれまでの話である。次から次と、おかげがおかげを生んでいくと言う様な信心にならなければいけない。
あの時にはそれこそ水をかぶったり、断食をしたり一生懸命御祈念をしたりしておかげを頂いたが、段々体力が衰えてきて水をかぶったり、断食をしたりと言った様な行が出来なくなって来ると、もう願う信心は力をなくしていくのです。そこで神様は拝まにゃとうさん。まぁ一生懸命拝む一生懸命修行する事によっておかげを下さるという時代から、改まらなければ、今度は通さんという時代。信心がまともに進んでいくと必ずそこへ参って来る。いうならば信心によって自分が見え出してくる。
そしてここも改まらなければならない。あそこもと言う様に、信心が分かって来れば来るほど、改まらなければならない所が見えて来る。そこで本気で改まる事になる。いわゆる改まって願うという信心。次には磨かにゃ通さんという。それを愈々磨きあげていく。本心の玉を磨いていく。心が愈々光出す。愈々分からせて頂くのが、我無力であります。自分が愈々自分の無力さ加減というのが分かって来る様になる時にです、願わずにはおられないという信心。
自分が無力であるという事が分かれば分かる程、願わなければ居られない。ですから同じ願うというても、願うその内容がただ、自分の事も分からず、唯がむしゃらに神様にお願いをするという信心からですね、自分自身が愈々分かり出す。そこから願わずにおれないという信心。本心の玉を磨かせて頂く所から、出て来る所の祈りであり願いである。是が愈々生みなす信心になるのです。
所謂おかげから、おかげが生みなされていく信心です。天地金乃神様というお方は、そういう氏子の信心を願っておられる神様です。願う只がむしゃらに願う。それから改まる。磨く。いよいよ自分の心が見え出して来る。信心の光りによって、愈々自分の無力さという事が分かってくる。そこから願わずにはおられないという信心。そういういうならば本心の玉を磨く、清めると言う事に焦点を置いて、そこから出て来る所の願い。いわば祈り。天地の親神様が、喜んで下さるおかげとは、そういうおかげ。
天地の親神様が喜んで下さるという、例えばご大祭は愈々本心の玉を磨く、それをいうと、天地の親神様のお心を心としてという信心。いうならば神様と同質のものを願っての信心。神様が水であるならば私共も水にならせて頂く事を願っての信心。それを又の教えでは天地日月の心になる事肝要と仰せられます。天地日月の心になる事肝要と言う事になってまいりますと、愈々改まらなければ居られません。
磨かずには居られませんいや改まっていく事が、磨いていく事が、有り難い事だという、楽しい信心になってまいります。そういう信心の稽古をさせて頂いておるものが、春の、例えばご大祭を拝ませてもらう時、奉仕させて頂く時に、神様のひれいは、もう嫌が上にもそれこそ願い以上いのおかげと言う事になってまいります。願いはいわばおかげ。おかげは又おかげを生んでいくというおかげになるのです。
今本部で言うておられる、頂く信心から生みなす信心にと言う事は、天地金乃神様にお喜び頂けれるような信心を、私は究明していく事だと思う。神様が水なら私共がいよいよ水にならせて頂こうという精進。そこから出て来る所の願い祈り。そこから生みなされて来る信心が頂けるのです。どうしてもだから愈々本心の玉を磨かなきゃならない。愈々改まらなければいけない。
磨き改まりそれが天地金乃神様の一番のお喜び。そういう心で願う成程そこには宗旨嫌いと言った様な事は勿論、ない事が分かって来るでしょう。同時に又世界が和賀心にあるといったような大きな心も開けて来るでしょう。ただ自分の願いごとに血道をあげる。ただ自分の願いことが成就すればよい。その為には一生懸命お参りをする。今合楽では、その表行という事を致しませんから、水かぶって願うとか断食して願うと言った様な事は、もうなくなりました。
ですからもう何処までも一つ心行一つにと言う事。心行と言う事はもう取りも直さず改まらなければ、磨かなければ出来ない修行です。ですから心行こそ愈々天地金乃神様のお喜び、いうなら天地金乃神様のお心に同質化する信心だと思います。そういう信心を持って、例えば春のご大祭が、いうならばお礼の大祭と言う事になって参りましたら、天地の親神様の勢いというか、御比礼は愈々輝くでしょう。
いわゆるおかげがおかげを生んで行く様な信心。ただ自分が喜べれる、まぁ自分が頂いて有り難いと思う信心から、神様に喜んで頂く信心。それはお参りとか沢山のお供えと言う事ではない。神様が喜んで下さるというのは、私共が愈々改まり磨いていくと言う事。そういう信心を神様が喜んで下さる。これからの教団の。一つの歩みというものがです。愈々そこに焦点がおかれて。
始めて生みなす信心と言う事が言えると思います。頂く信心から生みなす信心。それは改まり、清まらせて頂いた心から発せられる所の願い。それを神様が喜んで受けて下さる。その喜んで受けて下さるというおかげ。もう氏子が無理に願うから、頼むからというおかげとは、全然違うでしょう。そういうおかげを頂いて、始めて天地金乃神様のご大祭と言う事がいえるのだと言う事を皆が一つ認識しなければいけないと思うですね。
どうぞ。